ブルームーンはお好きですか?

数学と芸術と日々思ったことを書いていきます、雑食。

アートと写真を分けてる理由

こんにちは。

これを書いてるときはとても良い天気でまさにはっぴいえんどです。

 

先に言っておきたいのですが、これは私の解釈であり、私による定義わけです。なので、皆様に押し付ける気はありません。もし何かおっしゃいたいことがありましたらそこを踏まえた上で言っていただけると幸いです。また、細かい誤謬がままあるかもしれませんが、大まかな流れは間違っていないと思いますので、細かい間違いがありましたら、言っていただだけると幸いです。

 

はじめに

と、前置きで大分クッションを置いたのは他でもなく今回の話題がある種地雷であるからと先に言っておこうと思います。

最近、知人に聞かれた一言からこれは書きたいなぁと思ったので書かせていただきます。

 ちなみに言われた一言は『ただ撮ったのはアートにならんの?』でした。

 

まず、みなさんに聞きたいのですが、アートって何ですか?

これを聞かれたら、多分写真とか彫刻とか絵画とか…って言うかも知れませんね。

 この答えにお答えする前にまずは現代アートの歴史を軽くお伝えしようと思います。 

 

 現代アートについて

印象派と呼ばれる絵画があるころ、完全な抽象派を目指そうという流れがありました。

それを目指そうと思ったのがカンディンスキーとマレービッチです。

カンディンスキーは芸術科学、特に数学的視点と美術における視点を行き交うことで、科学的に絵画とはを研究し、完全な抽象画を書こうとしてました。

ここから現代アートの種が植えられました。

そのあとダダイズムシュールレアリズムというモダニズムが終わり、ネオダダやミニマリズム、アースアートといったポストモダンが来ます。*1

さて、ここで印象派と呼ばれるモダニズム前の絵画とポストモダンの作品との違いとはなんでしょうか?

 

それは作品の持つ役割の違いであり、「作品の自律性」と「自分の思想を媒介するためのもの」という違いです。

 

作品の自律性とは、作品そのものの価値観が揺るがないことを指します。

つまり、綺麗な絵画は誰が見ても綺麗だし、おどろおどろしい作品はおどろおどろしいものという印象を持ちます。実際、作者は「美しいものを作りたい」という気持ちで作っていたと思います。それがモダニズム以前の芸術作品の主な目的になっています。しかし、モダニズムを過ぎてポストモダンでは「自分の思想を媒介するためのもの」となります。有名な例として、ブルースナウマンの『coffee』などがあります。 *2つまり、作品単体の綺麗さではなく、作品を通して伝えたいことを伝える手段になっていっていきました。今ではリレーショナルアート、コンセプチュアルアート、キュレーショナルアートがメインになっています。もちろんこれらも基本的には作品は「自分の思想を媒介するためのもの」になっています。

 

そして分けてる理由

ここまで、今のアートの話をしました。ここから私がアートと写真を分けてる理由を。

一言で言うと目的と手段の違いです。

つまり、アートは目的は「自分の思想や言いたいことを媒介するためのもの」であり、手段として様々なものを選びます。しかし、写真の場合、目的はあくまで写真を作ることであり、手段が限られます。それが悪いというわけでなく、分類的に違うものは分けて話したいというものです。目的が「自分が綺麗だと思うものを撮りたい」、「言い表せない感情を写したい」ということもあると思います。しかし、それはあくまで最終的に作品にするのが写真の範囲内でしかないのであれば、それはあくまで写真でしかないということです。写真はスペシャリストでアートはジェネラリストという違いがあるのです。また、アーティストが写真を作品で用いるとき、写真を使うことに意味があり、作品としてその写真であることに意味がないことはままあります。(先ほどのブルースナウマンの『coffee』がそうです。)

何度も言いますが、写真が悪いとは思いません。私はいい写真が好きですし、写真集もよく買います。ただ、性質の違うものをまとめてアートと言うことがなんと言いますか、気持ち悪いなということです。ここでは写真でしか話を進めていませんが、彫刻や絵画でも同じです。

また、作品についても分類わけがあります。排泄物と思考物です。

排泄物とは何も考えないで、ただ作りたい、ただやりたいという衝動の元作る作品のことです。思考物とは、こういうのを作りたいとなった時にどうすればいいか?を煮詰めてつくる作品のことです。私はどちらの作品も好きですがどのような目的があってそれを作ったか?を自分の中で問う場合、これらを明確に区別して考えたいと思ってます。作品として提示するときに、この二つでは提示の仕方が変わりますし、見る側としても私は考える上で気にしています。ただ撮っただけの写真でもいい写真がありますし、考えて作った写真でもいい写真はあります。ただこの二つを自分の中で昇華させようと思った時に見方が微妙に違う、そういうことです。

最後に

長々と書いてしましましたが、大体書きたいことは書けたなあと思います。余談といいますか。最近自分がやりたいことは写真がやりたいのではなく、作品が作りたいのだなあとはっきりしたのです。なので最近はあくまで写真は私の中で手段の一つでしかないです。ただ、シャッターをただ切りたいという衝動に駆られた時のみ写真として写真を撮るということを行っています。こう言う違いが自分の中で明確にできてきました。なのでこう言うことを考えたくなるのかなあと…笑

またまた余談ですが、自分で自分のことをmathgrapherと名付けたのですが、割と面白いなあと最近気づいたので、いい名前をつけたなあと自画自賛してます笑

そういうわけで私が思うアートと写真を分ける理由でした。

長文失礼しました。

 

参考文献  "芸術"が終わった後の"アート" 松井みどり

*1:これらだけがポストモダンというわけではなくこれらを含む大きな流れがポストモダンということです。

*2:これも説明が難しいので自分で調べてください。