ブルームーンはお好きですか?

数学と芸術と日々思ったことを書いていきます、雑食。

チョコレートドーナツ

2012年、トラヴィス・ファイン監督によるアメリカ映画。

 

1970年代のとあるゲイカップルの実話のお話。

ゲイバーでドラッグクイーンをしているルディ・ドナテロが(に?)一目惚れした検事のポール・フラガーと恋に落ちた。その次の日、ルディの隣にいたドラッガーの母親マリアンナ・レディオンが逮捕されてしまい、その息子で知的障害者のマルコ・レディオンは一人ぼっちに。マルコをほかっておけないと思ったルディはポールに相談して一緒に育てることに。最初の一年間はとても幸せな日々を過ごした(それでも多少の波乱はあったが)が、ポールの上司のウィルソンが開いたパーティでルディとドナルドの関係がばれてしまい、ポールは首に、そしてマルコの親権も奪われてしまう。その親権を二人して取り返そうとするが……。

 

とまあこんな感じの話である。これを見終わったあと一番最初にでた率直な感想は「本当の家族というのに、血の繋がりは関係ないのだなあ」ということだった。(わりと月並みな表現だが)ルディがポールにマルコを育てたいと相談した時に話していたワンシーンが私にとってはとても印象的だった。

ポール「(マルコを育てるのは)簡単じゃない」

ルディ「簡単じゃないからって、やらないの?」

たった数秒のやりとりだが、僕はここが一番好きなシーンだ。そこにルディのマルコへの愛が詰まっていると思う。1970年代にはまだゲイやレズビアンといったセクシャルマイノリティーに対する偏見が強くあった頃、知的障害者への配慮も全然進んでいなかった。(今も偏見がないとか配慮があるかといったら、まあわからない)そのせいで親権を得るのに苦労するルディとポールなのだが、それでも公選弁護人や検事と果敢に戦う姿は涙がちょちょぎれるものだ。(もっというならこれは世間と戦っていると感じた)

 

最近知った概念なのだが、「感動ポルノ」というものがある。

詳しくはこちらを見て欲しい。

障害者は感動ポルノとして健常者に消費される - ログミー

少しずれているかもしれないが、今回のこれも一種のそれに近い概念かなと思う人もいるだろう。しかし、それとは違うと確信している。なぜなら私はマルコが知的障害者じゃなくてもルディは引き取ったと思うからだ。今回、触れて欲しいのは『子を思う心は母が持つとは限らない。また生物学的な親以外が持つこともあり得る』ということである。もちろんジェンダー知的障害者の偏見についても触れているが、私はここを一番言いたい。

普段私たちは血が繋がっているからといって『家族』という最小の社会に勝手にいれられる。(孤児だったとしても『家族』という社会には入れられると思っている)もちろんそれが本当の家族になる人もいるが、そうじゃない人もいる。人なのだから適応できない社会があるのは当然だと(私は)思っている。他の社会、例えば学校や会社といったものは全て嫌ならば変わることができる。しかし、『家族』という社会は逃げ出せない社会だ。(ここで勘当とか家出とかあるじゃないかと思うかもしれないが、勘当されても家出しても戸籍には少なくとも10年(だった気が)は残るので他に比べると簡単に切れるものではないと思う)血が繋がっている限り『家族』というものを強要されることはある種の呪いになっていると感じる。合わない社会にいることが地獄だということは多分わかっていただけると思うのだが、それが一生付きまとうのは辛い、本当に辛い。

しかし、マルコとルディ、ポールの『家族』は血は繋がってないが本当の家族だった、そこに親としての愛情があったのだ。それがとても僕の中で感動を覚えたのだった。

 

結局なにが言いたいかというと、この映画はゲイカップルや知的障害者というマイノリティーな要素でお涙頂戴といったチープなものではなく、それによって社会というものを強調することによって『家族』とは、『親』とはなにか?というものを強く問うてる映画になっている!と言いたかったのである‼︎(勝手に思っているだけかもしれない)他にもたくさん思うところはあるが、それはちょっと面倒ごとになりそうなので割愛させていただく。

 

個人的には本当にいい映画だと思うので是非見て欲しい。あと、個人的にルディの歌声が色気があってかっこよかったので是非そこにも注目してみてね!

 

しかし映画のレビューしか書いていないのはおもしろくない。今度ちょっとした価値観とかご飯を食べるということについて少しつらつらと書いてみようかな。